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原発事故から学ぶこと [思いのまま]

大飯原発の再開が今問われている。政府は需給逼迫からなんとか大飯だけでも再開出来ればという方針のようだ。その需給問題が産業界へ深刻な影響を与えるということも見切り発車への動機にもなっている。

世の中の議論を見ていると何もかも満たしたいという無い物ねだり的感じが拭えない。原発事故を整理してみると下記の点が論点ではないか。

①原発では絶対的安全は無く、事故が起きた場合の被害は生活、社会、歴史、文化全てを奪ってしまうということ。これを今日まで安全神話という幻想を作ることで世論形成をしてきた。

②原子力は綺麗で環境に優しい資源とすり込まれてきたが、未だに廃棄物の処理はこれからの課題というままで、核廃棄物をコントロール出来る術を持ち合わせていない。この点はスリーマイル島、チェルノブイリでもこの度の福島でも証明されてしまった。

③戦後日本は今日に至るまで、先進国になる、そのためには経済至上主義一辺倒で走りまくってきた。そのためには目先の取りあえずの理屈が付くなら一見安いという価値だけで意思決定をしてきた。ここに来て多くの報道で明らかになったように原発を未熟な技術段階での導入、コスト優先による安全対応の後回しあるいは無視、電力会社の経営面では収益優先的発想、そして地域発展という悲願を求めての地域=僻地=判断、それを享受する受容者=都会=も安いに越したことはないという安易な判断で走ってきた。誰もが無責任な判断、というか無判断を許容してきた。

④日本は原爆で唯一の被災国であり、不幸にして原発事故にも遭遇してしまった国として今何を主張し、これからの将来に何を目指すのかが問われている。

⑤まずは目先の問題である原発の再開をどう受け止めるのかだ。まずは無い物ねだり的思考を止めることだ。反対論の多くは再開反対、電力料金値上げ反対がまさにその象徴だ。当面原発再開出来なければ化石燃料に依存せざるを得ないわけだから値上げも許容するなかで考えるべきだ。再開推進派の論点である産業界の競争力低下、ひいては成長を阻害してしまうということも、どの程度か予測つかないが、起きることも覚悟の上で主張すべきだろう。

⑥ストレス・テストで天井を上げた条件が満たされたら、緊急避難的に最低限の原発を再稼働し、その後に脱原発の目標を合意の上で設定し、段階的に脱原発を完遂する政治的強制力を行使していくのが望ましい。しかし現時点でのストレス・テストは十分とは言い難い。ベント対策も不十分なままでの再開には疑問を感じる。スイスでは電源喪失後でも手動でベントが出来る対策が用意されていると聞く。ましてや活断層が施設下に走っているとの仮説にも科学的根拠が用意されるべきだ。今回の福島を振り返れば再開に当たって判断すべき重要事項だ。

⑦日本はエコ先進国と云われているが、それは本当なのか。明るくないと治安が悪くなる、だから煌々と明るくしなければならない、ハンディキャップを持つ人のためのエレベーターを健常者が堂々と遠慮もなく乗っている姿。企業経営では収益というバリアがあるので省エネが進行するが、社会システムが相手だとコスト意識は全く働かない。そこには大きな無駄が発生してしまう。社会に関わるコストを自己責任を放棄して社会、政治に負わせようとしている仕組みは無責任主義と自己責任主義、自立精神の放棄に繋がっている。

⑧これはきつい言い方になるが、原発誘致地区でも同様だ。誘致の背景には巨額な資金が流れている。それは原発を受け入れた利権にもなっている。正しい前提を聞かずにという事もあるが、結果的には今日起きてしまった災害はそれの前払い金の代償と言えなくもない。それを政治的に選択した帰結とも言える。

⑨これから原発再開を地域がどのように受け止めるかはその点をしっかりわきまえて判断すべきだろう。原発地区の関係者が客が来なくなって生活が成り立たない、だから早急に再開という声もあるが、それはそれで理解出来るけれどもっと広い地域までリスクを負わなければならないという側面も含めて、その先にあることの覚悟、合意形成が必要だ。

⑩それにしてもこの差し迫った時期に政治は与党、野党に限らず無為無策、自分たちのための政局としてしか受け止めていないのは言語道断だ。ただ、それをさせている背景にはそれを要求する国民、マスコミがあるからだろう。思い切った決断をすれば暴挙と云い、あれこれに配慮をすれば優柔不断を責める。国民が無責任、人任せ的になっている今日的状況を憂う。

⑪最悪にして最大の危機に遭遇した電力問題を根本から見直す今はおそらく唯一の機会だ。送電を発電機能と切り離し自由化を促進するというのも一案なのだろう。現状を前提にした改革は東電経営者のみならず全国の電力会社経営者の発する発言から浮世離れしているとしか思えない事ばかり。このような考えが企業内で常識化しそれに従えない人間が排除される企業カルチャーは百害あって一利もない、と誰しもが思っている。糾弾を浴びている官僚よりも悪質性があるのは独占企業として胡座をかけ続けられたからだ。そこにメスを入れる絶好のチャンスを生かさなければならない。

「Because it is there」マロリーの有名な言葉 [思いのまま]

「Because it is there」イギリス登山家マロリーの有名な言葉だ。いろいろな解釈があるのだろうが、「生きている」とつい傲慢になりがちな今日、実は「生かされている」という謙虚さが必要だと言うことではないのか。

山と立ち向かうときに自然界の懐に抱かれているのを率直に実感出来る。それに引き替え現実の社会はあまりにも傲慢であり、自己中心であり、強欲になっていないだろうか。

敬虔なキリスト教徒と言って憚らないブッシュが「神の前では兄弟」というキリスト教教義にもかかわらず異教徒を殺戮し、共産主義を政治信条としている国では富の不平等な配分が進行し、利権が社会を支配している、このような矛盾は数え上げれば切りがない。

このような理不尽は世界レベルだけでなく、日常のなかにもいくらもある。私利私欲を剥き出しにして人を人と思わない、社会への関わりには無関心、利権を支配の道具に使う、そんな輩が跋扈している世の中だ。
しかし、悲惨な東日本大震災が皮肉にも日本人の美徳と言われながら忘れ去られつつあった「絆」を思い起こしてくれたようだ。

これは両刃の剣で、一つ間違えれば出る杭を打つ、個性を奪うと言うことになりかねない要素を秘めている。これは表裏の関係で、「絆」の持つポジティブな側面を生かしながら、ネガティブな側面を抑える方法論を作ることがこれからの日本が日本らしく再生する道ではないのだろうか。
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ダウラギリサーキット(エピローグ) [ダウラギリサーキット]

10月31日~11月4日

ポカラ~ルンビニ~カトマンドゥ~成田

予定より早いスケジュール消化でダワさんと相談した結果、お釈迦様の生誕地、ルンビニを尋ねる事にする。ダワさんの奥さんも夢のルンビニ行きを聞きつけて急遽カトマンドゥからバスで来ることになった。丁度二人のお子さんを預けることが出来ることも幸いした。
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31日は見慣れたポカラの街を散策して一日を過ごす。街中に人だかりが出来ていた。中にはインド人の大道芸人が怪しげな仕草と道具を使って演じている。人だかりはどんどん大きな輪になっていく。一芸終わるたびに野次馬連中にドネーションをせびる。貧しい人々なのに気前よく札を差し出す。私にも格別の秋波が送られ、気がつかない振りをして無視したが、その要求は執拗以上だった。

そんなこんなの一日を過ごして疲れた身体を労り寛ぐ。部屋の前にあるベランダの椅子に座り久し振りにウオークマンを出して聞き入る。心地よい響きにうっとりしながらいつの間にか眠りに落ちていった。
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夜にはダワさんの奥さんも到着して一緒に日本食レストランに行く。店作りも日本風の竹があしらわれネパールにしては好感の持てる店だ。ダワさんから日本で食べたすき焼きが美味しかったと聞いたのでき焼きをメインに本当に久し振りの故国の味を堪能した。

11月1日ルンビニはほとんどインド国境に近い南国だ。前日交渉して9000ルピーで予約したタクシーが5時にはホテルに来た。ポカラは暖かいとはいえ早朝は肌寒い。今日はスズキだ。チキリ族の運転手だが、運転は上手いし、気遣いが出来る人だったので、今日一日一緒するのは苦痛にはならないだろう。
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途中でカリガンダキの美しい渓谷で朝ご飯を食べる。その先はインド平原に繋がる平坦な平野に移り、大きな街の連続になる。

ここまで南下するとすでに熱帯の陽気になり、社内も蒸し暑くなって窓を開けて走る。インド国境までもうちょっとというところで右折していよいよルンビニだ。
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ルンビニはお釈迦様の生誕地。不勉強でネパールを知るまではインド人と思い込んでいた。初めてネパールに来た時にそんな話をネパール人と会話して背筋が寒くなったことを思い出す。ルンビニはその当時の遺跡を中心に公園を作っている。ルンビニには大きな感動を期待して来たのだが、正直言って期待したほどではなかった。とはいえ一見は百聞にしかずだ。リキシャに載って園内を移動する。巨大なエリアに各国が国威を喧伝するためか競って寺院を建設中だ。日本はそのエリアから離れたところに妙法寺が作ったスツーパが見ることが出来るだけだ。この経緯には何かあるのだろうか。日ネ親善はどこの國よりも深い関係と自負していたので不可解だ。

後で調べて分かったことは国連がバックアップして、この地を世界遺産に指定した。そのマスタープランに丹下健三の案が採用されたそうだ。日本寺の造営計画があるそうだが、現在どんな進捗状況なのかダワさんも知らないし、リキシャの運転手も知らなかった。まだ未完成で見られる状態ではないようだ。

ルンビニからポカラに戻ったのは20時を過ぎた。トレッキングとは違った疲労感が走る。ドライシーズンでは珍しい雨が昨晩もそして今晩も雨が降った。

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翌日昼前に飛行機でカトマンドゥに向かう。ネパールで最後の晩はダワさんご夫婦から息子さん二人も一緒にタカリ族の料理をご馳走になる。とても美味しい料理に舌鼓、多くの日本人も来るらしい。ご主人は簡単な日本語を話せるし、日本の事情にも精通していた。
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11月3日午後には出発。市内の渋滞も気になるので10時にはホテルを出発して飛行場に向かう。13時50分発のTG320便に乗る。定刻でBKKに到着。ゆっくりしたトランジットなのでウインドショッピングで時間つぶしをしたが、まだまだ時間は余っていたのでラウンジでのんびりと時間が経つのを待つ。ふと気になってeチケットに目を通すと搭乗時間は21時半と記載されていた。おかしいと思い窓口に行って確認したところ思い違いをしていたことが分かった。成田行きが2本あって10時35分発のTG640便を予約してあった。すでにその便は全ての出発準備が終わって今からでは搭乗できない。

すぐにタイ航空の窓口に行って変更手続きをしなさいと云われた。幸い、TG642 23時50分は空席があった。変更手続きをして慌ててゲートに向かう。その便のゲートは離れているので汗をかきかきになって、無事に搭乗する。 7時30分NRT着。
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ダウラギリ・サーキット(18)ヤクカルカ~マルファ~ポカラ [ダウラギリサーキット]

10月29日(土)、30日(日)
ヤクカルカ~マルファ(2670M)~ポカラ(800M)
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カルカの番小屋庭先にテントを張って一夜を過ごす。ヤクの排泄物が散乱しているが、臭みはない。さすがにここまで下りると俗世界の臭いが伝わってくる。ヤクが放牧されている、目を眼下に向けるとジョムソン、マルファという大きな集落を従えたカリガンダキの川が流れている。
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ヤクカルカは標高3680M、富士山よりちょっと低い高さにある。さすがにここまで下りても朝方は冷え込んでいる。霧が掛かって視界が聞かない。

今日一日で里に下りられるというはやる気持ちと惜しむ気持ちが交錯する複雑な心境だ。今一番願うことは久しくご無沙汰しているホッとシャワーを浴びたいことだ。そして美味しい食事を。

マルファで今回のチームは解散となる。頭の痛いのは彼らに渡すチップの額をいくらにするかと云うことだ。ダワさんとその点について率直に相談する。私の案はポーターには15$、とりわけ格別の世話になったコックのドルチさんとカメラポーターのオンリさんには50$だった。ダワさんからはそれで良いでしょう、の返事が返ってきた。ただ、ひとつ気に掛かったのはポーターの働きで明らかに貢献度が違っていたし、ダワさんもそれを認めていたので、貢献度の高かったポーターには上乗せをしてみたらどうか、と尋ねたのだが、それはしないで欲しいとのことだった。

隣国のポーターは俺は貢献したのだから上乗せをして欲しい、と詰め寄られたことがしばしば。だからパキスタンではポーターへのチップも含めてガイドに一任したのだ。距離的には近くにありながらこの価値観の違いは何故だろう。宗教上の違いなのか、民族的な違いなのか。ネパール人(山岳民族だけの話だが)と日本人の感性的な共感を感じた。

8時に出発。ここからマルファまでの下りは一気だ。すでに足にはがたが来ている。いつにない関節の異変は気になる。急な下りだからなおさらだ。一歩一歩足をしっかり踏ん張るより、踏みしめる前に次の一歩を進めてまるで小走りで下るようにしたら足の負担が少ないように思えた。
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霧も晴れてカリガンダキの対岸に屹立しているトロンピーク、ニルギル、アンナプルナレンジが見える。2600Mから8000M弱の高度差のある立体感は迫力満点だ。

ダウラギリへのアプローチはベニから1週間以上掛けて攻めるよりマルファからだと一気に高度を稼げて一見楽に見えるのだが、現実には高度順応で障害が起きやすいことと、後半はダウラギリを振り返らないと見られないと云うことからこちらからのアプローチを選ぶトレッカーはいないそうだ。
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ぐんぐん高度を下げていく。紅葉している稜線が右手に展開する。マルファのゴンパや街並みが識別できるようになり、10時40分には美しい街並みに入る。右手に折れすぐの左手にあるロッジが今日の宿だ。自炊が出来るロッジ出なければならないのでどこでも良いところを選ぶわけにはいかない。炊事が出来るロッジはどうしてもシャビーになる。ただ、幸いホットシャワーが使えるが嬉しい。

ホットシャワールームは鍵が施錠されていて、厳しい管理下にある。まずは下見聞しておかないと。時々真っ裸になって勇んで駆け込んだみたら水しか出なかくて震えながら退散した苦い思いでもある。ここでは温かいお湯が出るのを確認して、着替えを持参して入る。2週間ぶりのシャワーはなんと気持ちいいことだろう。一滴一滴を大事に体に当てながら垢の落ちていく清涼感とシャワーが首筋に当たって体の芯が暖まる幸せを実感する。
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中庭ではポーター達が家に帰る準備をしていた。竈では砂を熱してその中に小麦を入れては出している。籾を取りやすくするための作業のようだ。庭先には赤く色づいたリンゴが鈴なりになっている。もぎ取ってもらって口にする。日本のリンゴみたいにはジュウシーではないが、自然な甘みが美味しい、そしてジュゥッと果汁が喉を潤してくれた。
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ドルチさんは明日日本人と合流して再び今日下りてきたヤクカルカ、ダンパスピークに向かう。日本人の固定客がいるようだ。確かに日本人にとっては素晴らしいガイドでもあり、コックさんだ。彼は登山靴の修理が必要だと云って近くにある靴屋に出向く。こんな街にと一瞬思ったが、登山基地の一つでもあるので需要はあるのだろう。400ルピーかかるとちょっと不満そうな顔をしていた。
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マルファは日本人にとっては縁の深い街だ。河口慧海が鎖国していたチベット潜入を企てるその準備をした街だ。今でも彼が世話になった家が記念館になっている。川口はマルファからジョムソンを経由して西に折れてドルパに向かう道を進み、さらに途中で北に進路を変えてクン・ラ越えでチベット入りをしたと云われている。謎の人間だ。
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マルファは石畳の美しい街だ。以前はベニまで数日掛けて歩かなければならなかったのに、今では自動車道が街の東側に開通して一日もあればポカラまで出ることが出来るようになった。数年前にマルファに逗留したときにはこの道をロバ隊が行き来して、ロバの糞が散乱していたのを思い出す。今では自動車こそ通らないがオートバイがけたたましい音を立てて通り過ぎていく。静かすぎるので普通の音でもそう聞こえるのだが。時代が移り変わっていくのを実感した。ロッジの女将さんに生活に影響がありますか、と尋ねると、物価が安くなって助かっていると云っていた。ロバよりは車という大量物流手段の方が効率的なのは云うまでもない。

外人が三々五々歩いているのが目に入る他、土産物屋の前で座って編み物をしたり、通りがかる外人に声を掛けて商売をしている地元の人だけが目立つ。。

ポカラに戻ってしまえばありきたりの土産しか買えないので、いい買い物があればといくつかの店を覗いてい見る。マルファにもチベット難民キャンプがあって、絨毯、ショールなどを作りキャンプを支えている。ヤクの毛を原料にした織物が店の奥に飾ってあった。なかなか色合いもよく、ちょっと嵩張るけど買うことにした。50$ぐらいだったと記憶している。
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今晩の夕食は打ち上げなので、ビール、ロキシーで乾杯したあと、鶏肉入りのカリーとチャパティー、ポーター達には欠かせないダルバートが出される。そして最後にローソクを立てたパウンドケーキが出される。そこには「congratulation for Dhaulagiri trekking」とチョコレートで書いてあった。ローソクの火を消してみんなでシェアする。

私から彼らへの感謝の言葉を伝え、一人一人にチップを渡す。そして記念撮影をした。
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30日7時半ガサ行きのバスに乗るため6時起床、半に出発して町外れにあるバスストップに向かう。今日は朝飯抜きになった。トレッキングに向かうドルチさんも荷物を持って一緒してくれる。バスストップで彼とは再会を約してグッド・ラックと声を掛けて別れる。

本来ならジョムソンからフライトの予約をしていたのだが、予定日より数日早く着いたので、ダワさんに昨日ジョムソンまで行って予約の変更をトライしてもらった。何しろ少ない便数なので簡単には変更が出来ない。結局相当数のキャンセル待ちでとてもあてに出来無い事が分かって、やむを得ずバス移動に変更になった。
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マルファ始発なので席は問題ない。アンナプルナアラウンドの帰路で歩いたトレイルを懐かしく思い出しながらバスの車窓から目をやる。右手にダウラギリレンジが見える。ガサまではなだらかなカリガンダキの川面に沿っての移動だ。道は決して整地されているわけではないが、順調に下っていく。時には以前のトレイルとは離れて自動車道が作られている。この自動車道をトレッキングしている白人のパーティーが何組も行き交った。私にはこのような立派な自動車道を歩く気にはならないし、歩くとしたら何故旧道化したトレッキングトレイルを歩かないのだろうか不思議だ。

途中でショートレストしてガサに向かう。10時にはガサに着く。空にはジョムソンとポカラを繋ぐ飛行機が行き交っている。恨めしく空を仰ぐ。
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ガサ(2010M)はベニまでの中間点になる。バスターミナルには多くのバスが待機していた。何故ベニまでの直行便が無いのが不思議に思ったが、集落の利権が関係しているのだろう。乗り換えの段取りも無事に済ませてベニ行きのバスに乗り込む。バスの規格は少し小さくなって座ると前の座席の背あてに膝があたり、膝頭が痛くなるほどだ。乗客は多く満席になった。10時20分に出発。
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ガサから先はカリガンダキに急峻な山が迫った渓谷沿いに悪路を走る。スリリングな道になり、対向車が来ると行き違いに手間取ることもしばしば。集落ごとに数人の乗客があってぎゅうぎゅう詰めになって来た。

バスの中は安キャバレーのようなシャンデリア擬きの灯りがあり、けたたましい音量で流行歌が流される。走行の音も騒々しい上、乗客もそれに負けじと大声を上げて会話する、そしてBGM。喧噪の中で多少苛立った。しばらくは険しい岩の間を縫っていくが、ダナ(1440M)の集落を過ぎると平坦な道になり、耕作地も目に入るようになる。
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羊の群れを追い越す。自動車道が開通しても羊は旧来の自力での下山をしているようだ。クラクションを鳴らすと一斉に路肩に移動してくれる。

12時悪夢を思い出すタトパニ(1190M)だ。ここには温泉があって入ったことを思い出すが、その翌日マオイストに道を立ち塞がれて一悶着あったところだ。タトパニでショートレスト。後方にはニルギルの山が見えていた。ここで昼飯になるのだが、バッティーの食事は取らずにビスケットと珈琲で済ませる。
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ゆっくりした昼飯休憩をして出発する。集落ごとに乗客を拾っていくが、出発の合図はボディーを叩くことだ。行き違いの際の安全確認も同様。原始的ではあるがこれが最善なのが分かる。
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実はこのバスの車掌とはダワさんと一悶着。その理由は我々の荷物が多いので追加料金を払えと云うことだった。少年と云っても通じる年格好だが、なかなか強かだ。ダワさんがそれを拒否しても必要に迫ってくる。ダワさんも聞いて聞かぬ振り。それはそうだろう、ベニまでのバスでは何も言われていなかったわけだから。ルールなしの世界は現地事情を知らないと戸惑うことばかり。ガイドさんの存在の有り難みが分かる。

車窓からの景色は亜熱帯地方の様相に変わっていた。ブーゲンビリアやハイビスカスが咲き誇っているし、社内も蒸し暑くなり、砂塵が入り込むのを覚悟で窓を開けないといたたまれない。さすがに疲れも頂点になり、安堵感も手伝ってそのあとはぐっすり寝込んでしまった。

気がつくと2時20分ベニのバスセンターに着いていた。砂埃の広場にいたたまれなくなりタオルを出して口を覆う。ダワさんは必死にタクシーを探しているようだ。しかし、この時間帯はタクシーが全くいない。結局路線バスに乗り込むことになる。ポカラ経由でタライに向かうバスだ。

3時30分に出発。ポーター達はカトマンドゥ直行便に乗り込むのでここでお別れだ。バスは多少デラックス仕様だが、途中での乗り降りが多く、しかも座席指定のはずなのに指定券を持っていない人が席を占拠して一悶着があったり、すでに超満員になっているので座席の上を移動してそれを確認をしている。車内はブーイングの嵐だ。

タライ方面に行くバスなのでほとんどがインド系の人たちばかり。ネパールと云っても私のイメージする人々とは全く違っている。こんな風景になれているダワさんから違ったルールの世界だと説明があった。混雑と混乱の中、途中での乗降に余計な時間が掛かって予定通りにはポカラには着きそうもない。そのうちに雨が降ってきた。

後ろから来た車にクラクションを鳴らされて急停車する。どうも屋根に載っていた荷物が落下したらしい。事なきを得て良かった。

そろそろポカラに近いらしいことは想像されたが、バスストップで突然ダワさんからここでおりましょう、と声が掛かった。慌てて人をかき分けて下車する。未だ雨は降っているがずぶ濡れになるほどではない。ここはサランコットへの登山口の近く。すぐにタクシーを捕まえてホテルに向かう。

トレッキングよりタフなバス旅行にくたくたになった。ポカラでは久し振りの中華料理屋で久し振りの本格的料理に舌鼓を打つ。
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ダウラギリ・サーキット(17)ヒドゥンバレー~ヤクカルカ [ダウラギリサーキット]

10月28日(金)
ヒドゥンバレー~ダンパスパス(5258M)~ヤクカルカ(3680M)

ここが何故ヒドゥンバレーと呼ばれるのか確認できないが、どちらからも5000Mを越すパスを越えないとたどりつけない谷で、谷が秘境と云われるアッパードルパに向かっていることから、どこからも隠れた存在だと云うことではないか。そんな想像を私なりにしてみた。

最低気温は-25℃にはなったらしい。昨晩の荒れた天候とはうって変わって無風で雲一つ無い絶好の天気だ。今日のキャンプサイト、ヤクカルカまで下れればあとはマルファまで一気に下るだけ。この先は天気が悪かろうが良かろうが我慢出来る行程だ。これで今回のトレッキングも天候に恵まれる事になりそう。運の良い男だ。
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7時20分には出発する。ダウラギリⅠは稜線の上にピークを覗かせている程度になった。
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ダンパスパス越えのトレイルは従来はもっと厳しい登りを覚悟しなければならなかったが、新しいトレイルが出来て急ではない登りのトラバースで越えることが出来るようになったそうだ。さらにパスからヤクカルカに至るトレイルもなだらかなトラバースが続くらしい。ダワさんから今日はそれほどタフな行程にはならないですから、といわれた。
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しばらく大雪原を進む。7時40分ここからパスに向かって緩やかに高度を上げていく。周りを見回すと右手にはツクチェピーク、後方には稜線越しにダウラギリⅠ、その右手にダウラギリⅢが見える。一昨日の雪で純白な雪をきしむ音を聞きながら踏みして前進する。さいわい雪はそれほど深くなく歩くのには好都合だ。昨日の強風のことを考えるとおそらく雪が積もると云うより吹き飛ばされてしまったのだろう。

8時10分いよいよパスに向けての登りになる。傾斜はそれほどではないが、5000Mを超えている歩行だから楽々というわけにはいかない。鉛の入ったような脹ら脛を上げるのは大変だ。雪原をトラバースし、そして稜線を越すために急斜面を登る。それの繰り返しが続く。9時半タルチョーがはためいているダンパスパス(5258M)に着く。
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パスでは新しい展望がひらける。パスからの展望はトレッキングでは初めてカリガンダキの谷を眼下に見ながら対岸にはアンナプルナレンジの山々、アンナプルナⅢやガンナプルナ(7,454)、そしてニルギルの連山、(ノースは7061M)を望むことが出来る。快晴ならガンナプルナの後方にマナスルも見えるそうだが今日は残念ながら雲に隠れている。
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東方に見える山々は懐かしい。数年前アンナプルナ・アラウンドをした際に、今見えているアンナプルナの背面をトレッキングしてムクティナート、ジョムソンへと下ってきたことが思い出される。ニルギルはジョムソンで雲間から辛うじて見た山だったので、想像の世界になっていた山だ。右手にはツクチェピークが左手にはダンパスピーク(6035M)がある。

ダンパスピークはこのコースに入る多くのトレッカーがピークハントする山だと聞いた。出会ったチェコ人、ドイツ人はそれを口にしていた。そのピークハントがどのくらいタフなのかを尋ねたところ、決して難しいことはないとガイドは云っていた。今回の計画では当初からその考えがなかったというか、それについて知らなかったためピークハントの予定はしていなかった。

ヒマラヤはラマ教の世界。タルチョー、マニ、そしてゴンパが必ずあってそれを目印に、あるいはそれでヒマラヤ気分を味わう、それがヒマラヤのトレッキングと連想してしまうのだが、このトレイルではほとんどラマ教を実感させるようなものはなかった。ポラカは完全にヒンドゥ教の世界で、その延長にある今回のトレイルでも同様。標高が5000M近くになってからタルチョーがポイントポイントにあったぐらいだ。
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一息入れたらすぐに出発。パスを過ぎるとガレがむき出してになっていて歩きやすい。徐々に大きな岩が露出したり、積雪があったりのトレイルが続き、10時30分には5000Mを切る。右下がりの大斜面をトラバースする。ダワさんからは今日はトラバースで楽な行程です、といわれたのだが、現実はそうではなかった。その点を追求(笑)すると、最近降った新雪が積もり、量も多いだけでなく新雪なので踏み固められていない状態だし、無風快晴の天気で雪が腐って足下をすくう状態になっている、今日は悪い条件になっていますね、だから時間が3倍は掛かかるでしょう、と云っていた。確かにこのトラバースであれば凹凸のない、しかも深い雪がなければ何のことはないはずであることが分かる。残された足跡を辿ってもしばしば谷側に足を奪われてしまう、その繰り返しにさすがに苛立っている自分がいた。
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11時10分4938M地点でランチ。といっても雪の上でお休憩なので大したランチにはならない。テルモスの珈琲だけが体を温めてくれて美味しかった。この日差しを受けて顔はひりひり日焼けしているのが分かる。鼻の下は触ることが出来無いほど荒れているようだ。髭ぼうぼうで真っ黒な顔になっていて今やネパリーと見分けがつかない状況かもしれない。

11時40分早々に出発する。右手の谷に向かっていくつかの稜線を乗越しては下り、それを何回も繰り返しながら徐々に高度を下げていく。前方には北からトロンピーク(6144M)、ティリチョピーク(7134M)、ニルギル、アンナプルナファン(7647M)、などなど見事な景観が楽しめる。眼下にあるカリガンダキ川の上流にはムスタン、そしてチベットに続くトレイルが、またジョムソンの先で右に上がるトレイルに入るとムクティナートに至る。
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アンナプルナアラウンドの際にはトロンパスを越えてムクティナートに下り、そこから見た黄金色に輝いていたダウラギリが迫力を持って浮き立っていたのを思い出すが、その時の印象が今回のダウラギリ・トレッキングの切っ掛けにもなったのだ。

滑ったり、深みにはまったり思うように歩けない、苛々がつのり体中に疲労感が充満している。膝の関節に微妙な痛みを感じるようにもなってしまった。足を痛めては残された行程が少ないとはいえ支障をきたすのでそれを意識するとなおさら疲労感が倍加してしまう。何でこんな新雪が降ったのだ、と自分に八つ当たりをしてしまう。
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3時20分稜線上に出て今まで悩みの種だった雪も急に消えて尾根上を一気に下る。辛い下りを最後の踏ん張りと気力を奮い立たせて足を運ぶ。さすがに風が冷たく強くなってきた。周りの景色もだんだんカルカ(牧場)らしくなり、遠くの稜線上を数頭のヤクが草を食むでいる姿が空に浮き立っていた。4時10分にヤクカルカに着く。ヤクを管理する小屋があるが、この時期には管理人は里に下りているので無人になっている。今晩はその庭先にテントを張って落ち着く。
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眼下に見えるマルファの街の光を見ながらこのトレッキングが明日で終わってしまうという安堵感と、同時にこれで終わってしまうという寂しさにおそわれた。

トレッカーによってはヤクカルカでは泊まらずに、一気にマルファまで下りてしまうこともあるらしい。とてもここからの下りはタフだ。明日は3時間の急降下だと聞いた。
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ダウラギリ・サーキット(16)ダウラギリキャンプ~ヒドゥンバレー [ダウラギリサーキット]

10月27日(木)
ダウラギリキャンプ~フレンチパス(5360M)~ヒドゥンバレー(5180M)

申し分ない快晴に今日のトレッキングも快適に進行できそうだ。
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昨晩ダワさんのところにチェコ人のトレッカーが緊張した形相で訪ねてきた。仲間の男が高山病になったので助言を欲しい、とのことだ。話によるとダイアナモックスを飲ませようとしても飲まない、水も口にしない、全くの無気力とのことだ。

名ガイドもそのような状況に名案があるはずはない。取りあえず安静にして状況を見るしかないですね、が彼の答えだった。それは当然で一番の治療法は高度を下げることしかないからだ。この先は5000Mを超えて数日歩かなければならないし、戻るには1週間もかかる。へりを呼ぶにしても通信手段がない。残念ながらダイアナモックスを上げることぐらいしか手伝えない立場なので、これ以上のコミットは出来ない無念さに心が痛んだ。山のリスクは究極の場面で共死にか、あるいは一人の命を捨てて一人の命を救う、という話が話題になるが、ここではそこまでの極限ではないにしても、対応は同じ事で無視して行くしかないわけだ。

さぁ、今日はダウラギリサーキットの最大の山場、5360Mのフレンチパス越えだ。さすがに今朝の緊張感は武者震いを起こさせるほどだ。肌を刺す寒さが気持ちをさらに高ぶらせた。

ダワさんから朝方「あなたの荷物は持ちますから空身で登りましょう」と云われた。さすがに私もプライドとの戦いがあってそう簡単には有り難うとは云えなかったが、万が一のことで迷惑も掛けたくないので従うことにした。彼らはザックを前後に背負うことを苦にしない。自分のザックを背中に背負いながら私のザックを前に抱えるように肩に掛ける。
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7時40分いよいよ出発。締まった雪をきしむ音を立てて一歩一歩踏みしめていく。小気味いい音だし、深くない雪は歩くには好都合だ。正面にトゥクチェピークを眺めながら、右手にはダウラギリ主峰とそこへのアプローチになる岩壁がそそり立ち、氷河に落ち込んでいるアイスフォールがクライマーの登頂を拒絶するように立ちはだかっている。クライマーはアイスフォールの左手からアタックするのが通常だそうだ。
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8時半モレーンの右手に移動していく。左手後方を振り返ると右からシタツヅラ(6611M)、ムクティ・ヒマール(6639M)、ダウラギリBCの真後ろになるダウラギリⅡ(7751M)とそのレンジが眺望できる。ここは4585M地点だ。右手のダウラギリ主峰からは遠ざかっていく。
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足元が雪からガレ場に変わっている。小さな瓦礫なので歩くのには快適だ。左手に沢が流れていた。12月になれば凍り付いて雪の中に消えていくのだろう。
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モレーンのエッジの先をビスターレ(ゆっくり)で一歩一歩足を進める。右手後方にようやくダウラギリ主峰が全容を見せてくれる。前方にはダンパスピーク(6034M)、シタツヅラが視界に入り、ダウラギリⅡはレンジの陰に入って見えなくなった。12時半フレンチパスの手前で腰を下ろせるフラットな場所を探してランチになる。炊事が出来無いので、今日もおにぎりだ。
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左手前方なだらかな登りを詰めたところがフレンチパス(5360M)だ。斜面はそれほど急でもなく、なだらかな登りの連続なので普通なら何という事もないのだが、さすがにこの高度なので脹ら脛はまるで鉛が入っているような感じになる。重い足をゆっくりと上げて高度を稼ぐ。
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20分ぐらいの登りだったか1時半夢に見たフレンチパスに着く。360°視界がきく素晴らしい景色だ。ダウラギリ主峰も見事だし、ダンパスピーク、シタツヅラ、ダウラギリ・レンジが圧倒するように聳え立っている。ダワさん、ドルチさん、オンリさんと肩を抱き合って喜びを分かち合う。といってもその喜びの意味は私にとっては格別の意味があったが、彼らにとっては私が無事にここまで上がってくれた安堵感だったのだろうか。
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ここからはヒドゥンバレーに向かって降下するだけ。パスから先は白銀の大海原。左流れの斜面を下りながらトラバースするトレイルだ。
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午後になるとパスを越した風が背中から押すように強くなってきた。この大斜面はスキーがあったらどんなに楽しい大滑降が出来るだろうと思いをはせながら、くたくたになって下りる悔しさを噛みしめていた。突出したところでは岩肌が露出して、窪んだところには腰まで潜るような深いところもある。ガイドの踏み跡を外さないように足を置いているつもりだが、時には目測を誤って硬いステップから滑って深みにもはまってしまう。そんな繰り返しを続けながら方角としてはドルパ地方(当初計画した)へ向かった谷を下っている。左手に向かって落ちる稜線を何度か越しながら3時には遙か彼方に色とりどりのテントが視界に入ってきた。だんだん斜度も緩やかに、さらに平坦になったところが今日のキャンプサイトになる。3時15分ヒドゥンバレー(5180M別名ヤクカルカ)に到着。

夏場にはここもヤクの牧場になるので、別名ヤクカルカとも呼ばれている。この先キャンプサイトに予定しているヤクカルカとは別のところだ。陽が差しているので風さえかわせば暖かみを感じるが、なにせ風が強く、体感温度が急速に下がってしまう。さすがに5000Mを超えた厳しさを実感する。

着いたときにはすでにテントが張られていたので、這々の体でテントに駆け込み、シュラフを出してまずはそのまま潜り込んで体を温める。

ダワさんからヒドゥンバレーは強風で厳しいとは聞いていたので、なるほどと納得した。8000M級の登攀で風との戦いの厳しさが記録の中にあるし、そのために多くのクライマーが凍死したり、吹き飛ばされて行方不明になると聞くが、その厳しさの一端をここの経験からでも想像される。

本来なら気力を振り絞って撮影をすべきなのだが、その気にもなれずにしばらくはシュラフに籠もったまま寒さと疲労に耐えていた。今晩もドルチさんの手間を考えて携帯食で済ます。今晩こそ出来損ないにならないよう、十分な時間を掛けて携帯食のチャックを開けた。でも結局は芯はなかったもののねっとりと出来上がってしまい平地のようには作れなかった。

夜半まではテントを揺さぶる強風にさらされていたが、深夜には風も収まり、満天の星が目映いばかりに光を放っていた。もう一日明日の天気さえ持ってくれれば申し分ないのだが、と天に祈る気持ちだった。
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ダウラギリ・サーキット(15)ジャパニーズキャンプ~ダウラギリキャンプ [ダウラギリサーキット]

10月26日(水)
ジャパニーズキャンプ~ダウラギリキャンプ(4740M)

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昨夕は悪天でキャンプサイトの環境を見ることが出来無かった。天気が気になっていたのだろう、深夜にあの激しい吹き付ける音が消えているのに目が覚める。テントのチャックを開けようとしたら首筋に冷たいものを感じた。テントの内面に氷が張り付いていてそれが剥がれて落ちきたようだ。テント内は体温である程度の温かさを保っているが、外が冷え込んでいたたけに起きた現象だ。
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表は顔を刺すように冷え込んでいて雲間からパラパラと星が光っていた。温度計で確認したわけではないが、ガイドブックにはこの季節、温度は氷点下20℃はくだらないらしい。確かに私の体験からも想像出来るし、ダワさんからもそんな話を聞いていた。

ダウラギリは1970年日本隊が第2登に成功している。元気な時代の日本人はヒマラヤで大きな足跡を残しているが、これもその一つだろう。

6時に起床する。昨日とは打って変わった景色にびっくり。白銀の世界に変容していた。幸い数センチの積雪程度だったので歩行に困難が生じるほどではなかったのでホッとした。
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凍てつくなか水を汲んできたり、食べ終わった食器を洗ったり仕事とはいえポーター達は気の毒だ。彼らは厚着をするわけでもなく、若いポーターは昨今流行のずり下げたズボンからお尻を半分出して作業をしている。伊達の薄着というのだろうか(笑。よくぎっくり腰にならないものだ。

8時半には出発する。完全な快晴になって、天候への不安を与えるような雲はなく、安心して高度を上げていける。氷河の上に雪が降ったのでとても歩きやすい。クレパスも時にはあるが、恐怖を与えるほどではない。歩くのにはそれほどの不安は起きない。
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9時10分には目映いばかりに太陽が差し込んできた。10時15分標高4250M地点、右手に氷河湖が結氷して真っ平らな湖面を作っている。正面にはトゥクチェピーク(6920M)が鮮やかに聳え立っている。
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11時前に急登があり、息が上がりそうになる。トゥクチェピークの右手にはダウラギリの主峰があるが、手前の稜線に阻まれてまだその頂を見ることは出来無い。
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しばらくは谷底にある氷河を辿る。前方には真っ白に雪を被ったピークが見える。気がつくと空は高山特有の紺碧の空に満たされていた。カメラに納めると黒がかった深い紺碧色になるはず。人工衛星からの写真でもよく見る色合いだ。

11時左手にあるモレーンを上り詰めると敷き詰められた雪がまばらになってガレと雪のトレイルになった。ここでは急登は終わり、なだらかな登りになる。息が上がっていたのでホッとした。11時40分ここは4420M、モレーンの両側に氷河が広がっていて、その真ん中に立っているのが分かった。
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12時左手の氷河にトレイルは進む。しばらく先に進み、ゆっくり出来そうな平坦な場所でランチになる。今日はなんとおにぎりだ。ただ、ドルチさんからも断りがあったのだが、すでに日本米は底をついたのでネパール米で作ったので悪しからずとのこと。確かに口にすると形が崩れてばらばらになってしまうので、落ちる前に口にするのに一苦労する。ただ、日本風に醤油味で外側を焼いてくれているので日本のテイストだ。
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早々にランチを切り上げて氷河を進むと落差のある氷河に寄りかかるようにしてヘリコプターの残骸が横たわっていた。いつ頃の事件なのか分からないが、機体がそれほど色褪せてもいないのでそう昔の事件では無さそうだ。機体の中心部だけがここにあるが、周辺を見回すと近くには車輪や椅子、そして箱が広い範囲に散乱していた。

12時40分には前方にキッチンテントが張られているのが視界に入る。ダウラギリ主峰は相変わらずピークを望むことが出来無い。それはフレンチパスまでお預けになる。

タルチョーがはためいていた。そこがダウラギリBC(4740M)だ。1時に着く。
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体を休める十分な時間があるのでテントに入って一眠り。ポーター達も三々五々思いのままに時間を過ごしている。夕ご飯はキャンプサイトの条件もよくないのでコックさんの手間を省くために日本から持ってきた携帯食を作ってもらう。標高が高いので「作り方」に記載された時間より長め(沸騰点が低い)にしたのだが、それでも時間不足だった。ちょっと芯が残る出来合いになかなか箸が進まなかった。
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ダウラギリ・サーキット(14)イタリアンキャンプ~ジャパニーズキャンプ [ダウラギリサーキット]

10月25日(火)

イタリアンキャンプ~ジャパニーズキャンプ(3810M)
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昨晩は予防的にダイアナモックスを飲んだため夜中に4回もトイレに行く羽目になる。幸い今日も天気は良い。毎朝お粥に味噌汁のメニューになっている。さすがに高度順応の軽度の障害だろうか、胃がむかつき元気よく口にするという状況ではなくなった。そして少しだけ腹の具合に異常が出てきていた。

8時10分に出発する。トレイルは左手の深い、切り込んだ谷に一気に降下する。右手にはダウラギリ・レンジの人を阻むような岩壁がそそり立ち、その左手から白い雪なのか氷なのかミャグディ・コーラに落ち込んでいる。つづら折れの急降下はちょっと緊張する。足場も悪く、うっかりすると滑落しかねない。
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底部で対岸に渡り、前方に見えた衝立のようにそそり立つ壁を今度は一気に登らなければならない。あとで疑問に思ったのだが、橋もなく渡渉もしていないのにいつの間にか対岸に渡っていたことだ。土砂が堆積して沢の流れがその下をくぐっていたらしい。対岸の方が下りより遙かにそそり立っている壁だ。細かくつづら折れを繰り返しながら登る。高度の緊張感が要求される。ガイドとポーターが私の前後でまるで子供を労るように何か不測な事が起きたらとすぐにでも手を差しだそうとして構えているのが伝わってくる。トレッキングを終えて振り返るとこの谷越えが一番の緊張場面だったことが思い出される。余裕が出て後ろを振り返るとダウラギリ・レンジが屹立していた。
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登り切ると穏やかなトレイルになり、草地を先に進む。ミャグディ・コーラは両岸から迫る岩壁で狭い谷状に変わる。前方に雪を被って白い山が見える。ここがパカボン。提示されていた行程表ではここがキャンプ地として記載されていた。バカボンはガイドによってはイタリアンBCの別名という人もいるので正確なところは不明だ。
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この先はなだらかなトレイルが続く。左手前方に黄色の掘っ立て小屋が視界に入る。9時50分スイスBC(3730M)に着く。小屋があるのはここが最後だ。この先には避難小屋はヤクカルカまでない。

ダウラギリの初登はスイス隊だった。彼らが未踏の難攻不落であったこの山を1960年ここから攻めたのかと思うと感無量だ。

早いけどこの先では料理を作る場所がないのでランチとなる。小屋の携帯ラジオが現地の流行歌だろう流しているのがうざかったが我慢するしかない。そうこうしているうちに後発で出発したチェコ人達が到着してさらに賑やかになってしまった。私は腹が空いていないこともあり、またこれからの体調を考えてビスケットと蜂蜜入りの珈琲だけで済ませる。

今日は天候が不順で雲間から陽が差している時は汗ばむし、すぐに隠れて急速に寒くなり、体温の調整が難しい。

11時40分ゆっくりしたランチを終えて出発する。スイスBCからは河原に沿って登り、時には高巻くこともあるが、厳しい登りではない。ガレ場、岩場のトレイルになり、様相はますます高山の雰囲気が増す。
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気掛かりなのは雲が出てきたことだ。未だ青空は残っているが、徐々に雲の占める割合が増えてきている。そろそろ富士山の山頂の高度に達しているはずだから、ここで天候が崩れると雨というより雪になる可能性が高い。しばらく平坦な河原を進む。地図にはフレンチBCがあるはずだが、明確な痕跡はない。キャンプ地として相応しそうな平坦な河原があったが、ひょっとしたらこのあたりなのだろうか。その時にダワさんにそれを確認するのを忘れていた。
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左手の岸壁から滝が落ちている。ミャグディ・コーラに左手から入り込んでいる沢は切り立った岩に囲まれて光を遮られているが、その上流からは不吉な先触れだろうかガスが下りてきていた。2時過ぎには日差しは全く閉ざされて足元はガレに覆われるようになる。あるガイドブックにはこの一帯は「雪崩に注意」とあったが、積雪もなく今はそんな気配は微塵もない。きっとそれはプレモンスーンの時期の警告なのだろう。
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1時半ごろ氷河の下に着く。いよいよこれから先は氷河の上を登攀することになる。氷河と言ってもここでは周囲から落ちてきた岩や、土砂で覆われているのでしっかり観察しないと氷河には見えない。最先端だけは氷が露出して氷河である事が確認される。狭い渓谷では午後には下から吹き上げてくる風に押される感じになる。今日はまさにその風を背中に受けて歩いている。体感温度を奪っていく。
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氷河の上に登り、今日のキャンプサイト、ジャパニーズ・BCはそう遠くないはず。ところが危惧した天候が悪化して霰混じりの雨になってきた。慌ててウインド・ブレ-カーをザックから取り出して羽織る。これ以上に天候が悪化したらどうなるのだろうか。これからが5000Mを超える難関が控えているし、最大の目的であるダウラギリ本峰を見ることが出来無い最悪を危惧する気持ちがもたげてきた。

2時20分ダワさんからここがジャパニーズBC(3810M)ですが、私たちは設営條件のいいもう少し上にテントを張ります、とのことだった。さらに2時50分もう一つのキャンプサイト(3900M)に着く。岩や瓦礫に埋め尽くされた氷河でうっすらと白い雪が隙間を埋めている。ここにテントを張ることになる。天候も悪化してきたのでポーター達が慌ただしく石ころの少ない場所を探し、目立つ石を取り除いて急いでテントを張ってくれた。

水場が氷河の下10分ぐらい下ったところだからポーター達がポリタンを肩に担いで上げてくれる。

時間的にはそう長く無かった行程だったが高度もありタフな登りだったので、昨日までとは違った疲労感が体を覆っている。脹ら脛が鉛のように重く感じられた。私は冷え切った体を温めるためにシュラフを出してすぐにその中に入り込む。シュラフも冷え切っているので入った瞬間は冷やっとしたが、しばらくすると自分の体温で確実にシュラフ内が暖かくなってくれる。

ここではダワさん達のテントを張る余地がないので私のテントにダワさんも一緒することになった。夕飯を終えて寛ぎ始める頃には風も強くなって、猛吹雪となり霰混じりの雪がテントを叩きつけるように揺さぶる。今晩はテント内に二人の体温があるので暖かくなるし、インナーシュラフとシュラフカバーを使ったのでぽかぽかしてきた。

相変わらずテントが右に左に揺さぶられてひょっとしたら飛ばされるのではと錯覚するほどだった。ダワさんから「大丈夫、心配はいりません」といわれてホットはしたものの生きた心地がしなかった。それでも疲れているせいか、いつの間にか睡魔がその恐怖を忘れさせてくれた。
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ダウラギリ・サーキット(13) チャルターレ~イタリアンキャンプ [ダウラギリサーキット]

10月23日(日)、24日(月)

チャルターレ~イタリアンキャンプ(3660M)そして高度順応
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深夜の満天の星に希望を託した結果か雲一つ無い快晴になった。7時50分キャンプサイトを後にした。しばらくは森の中をいく。まだ太陽は東の稜線の裏にあり陽が差してこないので薄暗い。そろそろ短パンに半袖から長ズボンと長袖に代えるかどうか悩んだが、天気も良いので取りあえず上着だけを長袖に代えその上にベストを羽織って7時50分に出発。しばらく平坦なトレイルを進む。どこからともなく人の声がする。

ガイドブックによれば「サラガリにキャンプをする」と見たことがあった。ここがそのサラガリなのだろう。男女のカップルの白人がのんびりと横になっていた。右手の小高いところがキャンプサイトのようだ。チャトラーレよりもっと自然に恵まれた環境だ。「ナマステ」と声を掛けて通り過ぎる。

すぐに凍った木橋を滑らないように気を使って渡る。ダウラギリのサウスフェースと前方には真っ白に雪を被ったシタツヅラ(6611M)が見える。8時半左手にダウラギリⅡが望める。8時50分3300M地点を通過、一気に高山の様相に変化した。
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ミャグディ・コーラの左岸を1時間も歩いただろうかだんだんと視界が広がって太陽の日差しが身体を温めてくれる。9時20分には急登が始まり、息も上がったが、幸いその後はややくだり気味の水平トレイルになる。10時には3458M地点、なだらかな空間が広がっている。ここがアメリカンBCらしい。一息入れて出発。しばらく行くと左手に滝が見える。ここまで来ると高度差も小さく、水量も減っているので今まで見てきた滝ほどではなく感動も少ない。さらに岩のトレイルを登ると周囲は森から草地に変わっていった。ようやく高山の雰囲気が醸し出されてきた。左手ミャグディ・コーラの向こうにはダウラギリ・レンジがそそり立っている。
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11時にはイタリアンキャンプ(3660M)に着く。ここには小屋があって男勝りの女性(管理人らしき人)がいる。ガイド達と盛んにやり取りをしていた。白いプラスチックの椅子があったのを、ダワさんが持ってきて座りなさい、と言ってくれた。胡座をかいて座るより楽なので有り難く受け入れる。

ドルチさんの手作りのランチを食べる。今日は彼の定番ランチの一つチーズと玉子のサンドイッチ。それにコンビーフとピーマンを和えたものなどなど。食パンはポカラで仕入れたはずだが、まだ美味しい。いつものトレッキングなら日程が進んだこのタイミングで食欲不振と下痢に悩まされるころだが、今回のトレッキングで体調が良いのはドルチさんの食事のお陰かもしれない。それと私のことを知っているダワさんだから気を使ってくれて飲み水はミネラルウオーターを下から上げてくれていた。
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イタリアンBCは広がりのある平坦な草地で最高のキャンプサイトになっている。ここで高度順応のために今日、明日はゆっくりした滞在になる。午後は我がチームそれぞれが思いのままの休養だ。高度順応の必要のないポーター達は洗濯をしたり、日だまりで昼寝をして休養している。若いポーターは他のチームのポーターとトランプの賭け事に夢中になっていた。

私にとってはこれから先の行程で高山病を克服するための大事な二日間になる。毎年5000Mを超すトレッキングを経験しているが、肉体の学習効果があるらしく、年々歳々順応力は高まっている。初めてタンボジェまでの簡単なトレッキングの時にはナムチェ・バザールではっきり自覚出来るほどの高山病を経験している。その後も食欲不振程度の経験はしたが、もしかしたらという程度の自覚症状にとどまっていた。今回もそうあって欲しい。ただ、足かけ3日間の5000M超は初めてなのでどうなるか不安一杯だ。
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一息入れてから2時に高度順応のためにBCの先にある小高いところまで上がる。つづら折りのトレイルを進む。ここでは緑も少なくなっているので花が美しく、目立つように咲いている。高山では花の存在がひときわ心を和ませてくれる。

高度を上げていくと太陽に反射して光っているのが目に入る。ダワさんからダウラギリに挑戦した登山家が、事故で無念の死を遂げた慰霊碑だと聞かされた。その数が夥しいほどにある。セルビア、スイス、ネパール、フランス、中国そして日本人のもあった。お国柄を反映するのだろう、西欧人のは墓に似せている地味なプレートだ。日本人のも同様。ところが中国人のは金色でサイズも大きい、一番目立たせる事が狙いと思われても仕方がない作りになっている。お国柄がここにも現れているようだ。
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それにしても凄い数のプレートにダウラギリのエクスペディションの厳しさ、そうさせてしまうダウラギリの魅力を実感した。非業の死と見える事故も本人にとってはどうなんだろう。たまたま夢枕獏の「神々の山嶺」を読んだ直後なので、クライマーの心境が少しは分かる気がした。
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5頭のロバ隊が登ってきた。50前後だろうかドイツ人の夫婦が上がってきた。荷物は彼らのものらしい。彼もニコンをぶら下げている。私もニコン。自然に近づいて一言二言言葉を交わす。不思議だが白人と十把一絡げとして考えてしまいがちだけど、ドイツ人は今回に限らず理由無くシンパシーを感じてしまう。日本人を認めてくれているという実感をもてるのはどうしてだろうか。彼らはダンパス・ピークへのエクスペディションを目指してそのまま先に進んでいった。その他にも小屋前には今まで見かけなかった白人が6,7人いた。

戻ってみるとドルチさんが水牛の肉を切り裂いていた。あれぇ、肉は終わったのではと言うと「大事に取っておきました、まだ大丈夫ですから」と言われた。今晩は水牛丼と天ぷら擬きだった。ドルチさんの憎いばかりの心遣いに敬服した。

明日は休養日なので天気はどうでも良いと思いながら、幸い明日も良さそうな雰囲気だ。

さすがにこの高度になると息苦しさを感じることがある。不思議なことだが、活動をしているときには一所懸命に呼吸をするからだろう、それを感じることはないが、横になって寛いでいるときに息苦しさを感じて目を覚ますことがある。そういえば以前にもそんな経験をしたことが思い出される。身体が活動を低下させて、それに合わせて呼吸活動も低下するために起きる現象なのだろう。

翌日も快晴の朝を迎えた。こんな良い天気は肝心なときに取っておきたいぐらいだ。10時には再び高度順応もかねて上部にあるケルンまで登る。3700Mを少し超えた高度だ。そこからは明日の行程にあるスイスBCの小屋が見える。

明日向かうトレイルを観察しに左手の深く広く落ち込んでいる谷を上からのぞきに行ってみた。つづら折れになったジグザクの急降下して正面には急登するトレイルが見えた。

昼飯後は陽の当たるところで昼寝をしていたが、急に雲が増えて寒くなってきたのでテントの中に入った。しばらくするとぱらぱら雨の音がしてきた。キッチンテントに行って蜂蜜入りの珈琲を作ってもらう。過去のトレッキングではチャイを飲むことが多かったのだが、今回は毎回蜂蜜入りの珈琲に嗜好が変わっていた。

イタリアンキャンプは高度順応をするので滞在日数も重なるし、エクスペディションの基地としても使われるので、どこのキャンプサイトよりも大勢のトレッカー、クライマーがいる。

今までのトレッキングでは30代前後の人が多いのは共通していたが、ダウラギリでは50才以上の壮年、老人とは全く出会うことがなかった。

夕ご飯は水牛肉入りのカリーだ。最初は食欲が低下して口にするのにちょっと抵抗があったが何とか食べることが出来た。しとしと降っていた雨も夜半には上がって星空が広がっていた。明日も天気は良さそうだ。
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ミーイズム  悲しい日本 [思いのまま]

アジアに行くたびに日本のプレゼンスが確実に後退しているのを実感する。ネパールでは数年前までは中古のトヨタ・カローラが車の代名詞だった。それに代わってインド製のスズキが進出してきた。ところが徐々に現代にシェアを奪われ高い評価を受けるようになっている。街を歩いていると「日本語話せます」、あるいはカタカタで看板が出ている、それが決して不自然ではなかった。日本人が街を闊歩していたから。

ところがこの10月2年ぶりにネパール入りをして明らかな変化を実感した。日本人に会わない、日本語の表現が減った、日本人ですかと聞かれなくなった。時には中国人ですかと言われてしまう。

昨年、日経の交遊抄で「親日国ネパール」で彼らから日本人の誇りを思い出させてもらったエッセイを掲載させてもらったが、確実にそれが色褪せているのを実感される。

そのうえ、経済的プレゼンスの後退だけではなく、精神的世界においても後退しているのを実感する。どこの國より日本が大好き、嘘をつかない、誠実だ、優しい、まじめが彼らにとって日本人の代名詞だった。

1ヶ月にぶりに東京の街を歩いて、そんな日本人はどこにいるのだと思わざるを得ない。電車のドア口でまるでサッカーのゴールキーパーのように立ちふさがり譲らない面々。入ろうとして押そうものなら逆恨み。道でも電車でも公共の場でまるで自分の空間のように我がもの顔でマイペース、携帯を操作しくまり相手が避けるのが当然、本を読みながら流れを妨げる、肩に掛けたバックが相手の肋骨や背中に当たろうが無関心、それを伝えるとお前が避ければいいとばかり怒りの顔。ネパール人に褒められた日本人はどこにいったのだろう。きっとすでに化石化したのかもしれない。

加えてこのような振る舞いをするのは若者と思い「最近の若者は」と言いかねないが、実はいい年をしたおじさんやおばさんも多い。そうか、こんな親だから躾も出来無い、子供を怒れない、そんな情けない親だったら、「困ったものだ」と言われてしまう子供達は責められるのではなく同情されてしかるべきなのかもしれない。
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